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2008年5月13日 (火)

河林満との想い出ー追悼の思い深くー

ここしばらくブログを書いていると、不明のことも多くありその都度PCで検索する習慣がついてしまった。文学関連で芥川賞等をみていたところだと思うが、河林満の訃報らしきものとぶつかり、半信半疑というか信じられない気持ちのほうが強くまた衝撃を受けてしまった。東京方面にいる古い友人達に確認の電話をしてますます深いかなしみにとらわれてしまい暫し瞑目し黙とうをささげた。彼の概略が『ウィキペディア(Wikipedia)』にあったので参考に掲げておく。

河林満
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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文学

河林 満(かわばやし みつる、1950年12月10日 - 2008年1月19日)は、小説家。福島県いわき市に生まれる。1991年から、吉野せい賞の選考委員をしている。

東京都立川市や昭島市で育ち、東京都立立川高等学校定時制を卒業した。その後は、郵便局員(2年勤務)、立川市職員(27年勤務)となったが、文筆業に専念すべく退職。

1986年に、「海からの光」で第9回吉野せい賞奨励賞、1988年、「ある執行」で第七回自治労文芸賞を受賞した。その後、「渇水」で文學界新人賞を受賞し、『文學界』1990年6月号に掲載した。同作品は103回芥川賞候補にもなった。1993年には、同じく『文學界』に掲載された「穀雨」で再び109回芥川賞候補となった。1998年に立川市を退職し、文筆を専業とした。

昭和46、47年当時、銀河詩手帳に参加しながら、ぼく自身は『三人の樹』もしくは『火の鳥』という詩誌を出していたが、それとは別に池上義一氏が主宰した『わが仲間』という同人誌にも創刊から参加した。この投稿誌ともいえる同人誌は池上義一という人の不思議な人間的魅力で続いてきたとも今では思えるのだが、創刊号が見つからないので推測で1972年(昭和47年)頃の発刊開始だと思える。その関係でその前後の期間にある文学研修の会というよりは交流会に参加した折に、出会い、知り合ったのが、河林満であり、彼とよく二人でいたのが小浜清であった。二人とも二十歳過ぎのことでまだ童顔が抜けきらない年頃のことであった。ぼくが年上とはいってもそう違う訳ではないのだがその表面上の風姿にある危うさを感じたりした。それ以来彼等ふたりは十数年えいえいと努力を重ね文学賞を受賞し、それ以降現在にいたっている。

『わが仲間』という同人誌からは宮本輝が出るのだが、第7号(1976,1,1)に「弾道」、第8号(1976,8,1)に「蛍川」、第9号(1977、1,1)「舟の家」と発表し、その「舟の家」を大幅に改作、加筆して「文芸展望」第18号1977年夏季号で「泥の河」とし第十三回太宰治賞を受賞。「文芸展望」第19号に太宰治賞受賞第一作として同じように「蛍川」を加筆改作のうえ発表し、この作品によって第七十八回芥川賞を受賞した。

河林満はこの『わが仲間』12号(1980,5,1)に『「幻の光」感』という随想を発表しているので、末尾に追悼をかねてあげておきたい。
『火の鳥』の同人で長野県安曇野の松川村に住んでいた永田浩幸(作家・詩人)の自宅が新築され近くに住まわれていた平林敏彦さんの所にも多々お邪魔するようになっていたとき、ぼくの所に泊まっていただいてもいいですよ、という言葉に誘われて遠慮せず厄介をおかけしたが、ある夏の期間は河林さんが見えて、原稿を書かれていましたよ、ということであった。安曇野の平林さん宅には何度かお邪魔をしたが、小浜清とは平林さんのお宅で彼の家族とともに二度ほど過ごしたし、田中健太郎との想い出も懐かしい。

  「幻の光」感                  河林 満

 宮本輝の第二創作集、「幻の光」を読んだ。三度読んで、三度目に発見できたことが少なくなかった。それを享受することもできるのは文学の力のためである。文学の力とは、生き延びようとする人間を、ある高次なものへの共感によって先導する力に他ならない。私は、宮本輝の優れた資質ともいうべき清潔な抒情と、一言一句が周到に鍛えられた作品世界の中に、それを見い出したのである。
 物語の荒筋は省略するけれども、要するに不幸からそれは出発する。すなわち、主人公ゆみ子が故郷尼ヶ崎の幼馴じみと結婚し、生まれた子供が三ヶ月になった時、夫は突然自殺してしまう。原因不明の鉄道自殺である。その一人息子が四才になったとき、彼女は再婚する。北陸の奥能登の、やはり妻に先立たれて一人娘を遺された男の元へ嫁いでいくのである。物語の視点は、それから三年たって三十二才になったゆみ子の現在から一人称によって、過去がみつめ返される形に設定されている。ゆみ子の現在と過去が、尼ヶ崎の幼い日々からの風景の記憶と新生地北陸の風土との対比が、死んで行った夫に向けて語りかける内緒話しの手法を通して展開される。それは「得体の知れん近しい懐かしいもの」に話しかけているというゆみ子の実感と二重写しの構造になってもいるのだが、ともかくそれが何なのかは判らない。ただ話しかけるのである。手法について詳しく立ち入る能力を私は持たないが、この「内緒話し」は手法であると同時に、この作品のテーマを支える重要なエレメントになっている。これは注目すべきことである。手法が即テーマであり、テーマが即手法であると迄いえる関係、テーマが自然に肉体をそなえたような手法としての「内緒話し」。この両者がほとんど一体になることによって主人公の内面の劇、すなわち不幸からの自立の過程が、明らかにされていく。なぜ死んだのかという問いは、「地団駄を踏むような悔しさとわびしさ」のうちに繰り返し主人公を突きあげる。しかし死者の沈黙は永遠であり、その沈黙に問いはたえず凍結されながら、逆にその問いを肉体と心情を統一する全生命によって生き切ることの中に、ゆみ子は不幸を成就し、その果てにもうひとつの故郷を創造していく。不幸がそれを生き切ることによって輝いてくるのである。哀しみが輝いてくるのである。むろん、しかし一人で生きられる訳ではない。母親、弟、新しい夫、血のつながらぬ娘、あるいはいまは「縁側に座ってにこにこ笑いながら、日がな一日暮らして」いる義父の力までもが尊く必要であった。その中で、分けても印象的なのは、朝鮮人で男まさりでいつも作業衣を着くわえ煙草でトラックを運転する女、漢さんの姿である。知り逢えて十年間、漢さんはただの一度もゆみ子に声をかけたこともなければ笑顔を見せたこともない。不思議な人物である。けれどもその漢さんは、ゆみ子が北陸へ発つ朝、なぜか大阪駅迄送ってきて、ゆみ子を励ますのである。ゆみ子は述懐する。「不安や心細さや、後悔が重なりあって揺れ動いていた、あのときの私の心に、漢さんはいったい何を注ぎ込んでくれたんやろか。漢さんは何を思って、それまで親しいに言葉を交わしたこともないわたしを、ホームにまで送ってきてくれはったんやろか。」漢さんは初めての笑顔をゆみ子に見せる。その漢さんの金歯はゆみ子の夢のなかで「妙に上品に光ってる」のである。私は、この漢さんを造形し主人公に対置する作者に、文学の力の一端を見せられたような気がしたし、又、「幻の光」という題意を「妙に上品」な光に探ることができるようにも思う。そして、いささか乱暴な要約を試みるなら「幻の光」とは「虚の光」であり、それは北陸の曽々木の海の突然光りだす一角としてメタファーされる。冒頭「不穏なさざ波」にゆみ子は人生の意味を尋ねようとし、今また物語の終わりで海をみつめている。その「海の一角」とは同時に「暗い冷たい深海の入口」なのであり、「海の本性を一度でも見たことのある人」は必ず「我に返る」。我に返って何事かを悟るのである。すなわち虚の光とは実の光である。壮大なる虚は壮大なる実なのであって、それゆえにこそゆみ子は生きることができたのである。不幸が遂に輝きを帯びる。哀しみが遂に輝きを帯びる。「幻の光」が人間にとって幸福が何であるかを暗示していることはもはや言う迄もないだろう。「得体の知れん近しい懐しいもの」が何であるかは判らないし、判らなくてもよいかも知れない。繰り返し重要なのはそれと「内緒話し」をする姿であり、それが可能な力を人間はみずからの中に宿していることだ。そこから再生が始まってゆく。死んだ夫、死者の沈黙との交渉の果てには、その永遠の沈黙そのものとの和解すらが成就されたような不思議なおもむきがあり、これを読み終えた時、私は、芳醇な恋愛小説を読んだような心持ちすら覚えたのである。人生との対決。それが文学の永遠の原点であり、常に変わらぬ真の作家的営為であることを「幻の光」は示している。
 

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