2019年7月 5日 (金)

松村信人詩集『『似たような話』にいたるまでの時代につい(現代の詩篇)2

『似たような話』にいたるまでの時代について2・・それから


詩集『伝承』から詩集『光受くる日に』に至るまで、二十七年が経過している。この間にいったいどのような事が起こったのか、詩的興味はつきないところだが、実際の詩作に当たって見たいと思う。まずは第一章の「瞑想圏」から「還りゆく日々」をあげてみたい。この二十数年間は彼にどのようなことをもたらしたのだろうか。また還るべき居処はいったい何処にあるのか・・・


還りゆく日々


失なうことで獲られる
今日のかたちをした未来
これまでを背負った今在るかたち

きっと私は目指していた
ブランコに揺られながら
より遠くまで跳べる日が来ることを

気がつくといつも焦っている
物語の完結ばかり夢想している

風の視線で
点字を解読する
不明な世界の連続が逆に私を支えている

携帯電話にせかされて走る
一日一日の断面に
映っては消え去る未来図

ねだる駄々っ子のように
完結への道筋を探る
明日へと還りゆく日々


 明日へと還るとは、いったい何故また何時のことなのか、彼はこの詩を誰に向かって書いているのか。たぶんそれは彼にとって自明のことなのだろう。かなえるべき夢、現実における事象の転換、自己実現への日常の仕事ととしての過程。それらによってもたらされるべき成果。それらは現実の生活上はどうだったのか。


その風のゆくえに


同じ道を今日も同じ車で走り、同じ建物の同じエレベーターに乗り
ながら、昨日の記憶とは重ならない 同じ得意先の同じ種類の仕事
を同じ手順でこなしながら、今日の形しか視えてこない

その風はどう吹いて来たのか
私の育った小さな田舎町を吹き抜け、大阪の林立するビルの谷間を
吹き抜け、日日悶悶と私の体内にくすぶっている風は

ほとんど夢の中でテクストを開く
もどかしいくらいの言葉の行列の間に間に
そも若き日の思いに重なり合うものを感じる

彼らが形づくってきた頁の世界を歩く
あるいは染みのような私の軌跡をなぞる

祇園祭の夜、京福電鉄で轢死したI
二十年前に詩を書くのをやめ黙黙と映像に取り組むF
あるいは焼き物造りに、絵画に、人それぞれの風は吹き過ぎていっ
たはずだ

事業に失敗し、バブル崩壊と共に捨て身で地上げ屋に身を投じたM
は不思議に成功した
日台の文化の架け橋にならんと、思い出したように仕事の話を持ち
込んでくるがいつも不成立になってしまう、台湾に住む黄さんはも
う六十歳を越えてしまった

五十に手が届こうというMは、四十半ばの私と黄さんの三人で、遠
く中国本土タクラマカン砂漠の彼方まで貧乏旅行しようという
砂漠に沈む夕陽をめざして、人生最後の自堕落な旅にしようと…

その風はどう吹きぬけて行くのか


 ここから人生の過程の半ばと思われる時代から、彼が出会った人々のそれぞれの人生の過程も朧気ながら観えてきたのだろうか。詩集『似たような話』の冒頭の「海」という作品にやはり京福電鉄嵐山本線で轢死体となって発見された、友人のことが詠われている。「事故か自殺かは今もって定かではない。」となっている。
 落語の話の中で、立川談志が「人間の業を肯定するのが落語なのだ」と言っていたのが、心に残っている。松村信人の詩に表現される不幸な出来事のように見える登場人物たちにも、なにかそれに似た彼の一貫した執拗な表現姿勢が見えるように思えるのだ。第二詩集から第三詩集が出版されるまで十五年が経過しているが、その間第二詩集に表現された人達が、より具体的に鮮明に立ち現れてきたように見える。
 詩集『光受くる日に』と同じ表題の詩をもう一度読んでみる。


せめて針の穴ほどの視力をと
望んでいた
その永きにわたる光なき世界
せめて針の穴ほどの光をと
思いつめていた

一瞬にして喪くしたもののあまりに多く
一瞬にして動きそのものさえ忘れた
色を形を
音と手ざわりで反復する
日常はすべからく単純化し
およそ周囲は遠ざかった
深い深い闇が壁となって
前に進み行くことを阻んだ
朝と夜を音と匂いで判別するままに
時の流れがあるのだった

せめて針の穴ほどの視力があれば
せめて針の穴ほどの
信仰にも似た強い思いに徹した日々
そしてはからずも
宇宙の果てからのかすかな暗示があった
それを予感と呼びうるのだろうか
夢うつつの中での
はかなげな光の視界が開けてきたのは

すでに十年という歳月は流れていた


 ここに彼の覚醒ともいえるものが表現されているように見える。そこから彼が出会い、知り合った人たちへの、哀歓とも友情ともいいえる複雑怪奇ともとれる詩的表現が顕われてくるのだ。詩的リアリズムという言葉をあげて、この詩集『似たような話』を語ろうとした人たちがいたが、詩を読むことでそれを確認してみよう。先ずは冒頭の詩「海」である。


ーー海を探しています

見知らぬ女から手紙が届いた。暑い夏の盛りである。いたずら心に海について
書かれた読みかけの詩の一節を送った。

ーー違います、私が探しているのは

今度は海の絵をコピーして送った。何処にでもある海の風景画だ。

ーーそういうものではありません、私の海は

何度かのやり取りのすえ、とにかくいちどだけ会うことにした。京都河原町三
条の喫茶店。三時間近く話し込んだ。結局海は見つからなかった。私は海に詳
しい友人に紹介することでその日は別れた。

ほどなくして友人から電話があった。変な女を紹介しやがって、と怒っていた
が、まんざらでもなさそう。

その年の暮れ、友人から呼び出しがあった。梅田東通商店街の居酒屋で待ち合
わせた。ずいぶん痩せこけているように見えた。キョロキョロあたりを見回し
ながら女とは別れたとぽとりと言った。

真夜中に部屋の窓を外から叩く音がして、開けるとあわてて逃げていく人影を
目撃したり、不審な電話が頻繁にかかってきたりと、嫌なことが連続して起こ
っているという。

翌年、夏を待たずに友人はこの世を去った。深夜に京福電鉄嵐山本線、車折神
社・鹿王院間の線路上で轢死体となって発見された。事故か自殺かは今もって
定かではない。

女の行方は分からなかった。手紙を出しても転居先不明で戻ってきた。そうし
てすっかり忘れかけていた頃、差出人不明の手紙がふらりと舞い込んできた。

ーー私の海を返してください


 ここには不思議な女性が登場する。「海を探しています」と語る彼女の夢である「海」はどのような世界に存在する海なのだろうか。それに焦がれる意思が強ければ強いほど、現実との齟齬、重なり合わずズレていく幻滅が現実のこととなっていくに違いないであろうとおもわれる。ここには不可思議な選択された言葉によって、何か狂気のように迫ってくるリアリズムと呼ばれるものに転化した何ものかが確かに存在しているように感じられる。
 このような詩的表現をこころみた詩人をいままで見聞きしたことを、私は知らないでいる。それほど、本質的に異質な表現法と感じられるもので、衝撃的なことであると思われるものである。そこには人間が少なからず、それぞれがもって生まれてきた悲劇的な出来事を招来しかねない業のようなものを感じてしまうものでもある。
 そのことに立川談志のいった、「業」というものを現実に存在するものであり、そのまま受け入れることによって、肯定しようという意思の表現法としての笑いを感じるのであるが、松村信人の「詩におけるリアリズム」の衝撃観を目にして、不幸に遭遇せざるを得ない業としか考えられない、生を活きるであろう人達の悲劇を目撃することとなるのである。これが彼によって創造された「詩的リアリズム」の世界というものであろう。これはある意味において彼の生きてきた世界の片隅で出会った人たちの物語であったのかもしれない。そのように思わされるほどに現実的なことのようにも想起されるのである。
 そうであれば、私たちは彼の作り上げた悲劇的世界の創造物をおおいに鑑賞しようではないか、それこそ詩を読むことの本質であろうとおもわれるのだ。「海」の次は「笑うタカハシ」という作品だが、それも引用してみようではないか。


タカハシはよく笑った
出自も経歴も知らなかったが
税理士の名刺を持ち歩き
三つ揃えのスーツを着こなし
大きな黒皮のカバン
てかてかのポマードを光らせ
よく笑った

ある時病院に担ぎ込まれたと聞き
駆けつけると
タカハシは笑いながら助けを求めた
保険証を持っていないとという
私になりすますことで
タカハシは命拾いをした

酒がめっぽう強く
夜ごと飲み歩いていた
よく笑い
金払いはよいようでどの店の受けもよかった

ある時クレジットカードの異変に気づき
調べているうちに
タカハシの顔が浮かんだ
タカハシとは連絡がつかなくなっていた

消えたタカハシを追っているうちに
同じようにタカハシを探す男たちと知り合った
私たちは情報を交換し
葛飾区新小岩の小さなアパートに踏み込んだ
タカハシに笑顔はなかった

タカハシとは話をつけたが
約束は実行されず
またも姿を消してしまった

東京、埼玉、千葉
その足跡を辿っていくうちに
タカハシのたった一人の身内と出会った

市川市原木に住むその身内は
小さな位牌を差し出して見せた
ーー兄は死にました

真冬の房総の海に飛び込んだのだという
タカハシは本当に命を絶ったのだろうか
街中をひとり歩いていると
笑うタカハシたちであふれていた


 この「笑うタカハシ」と名付けられた登場人物は、いかにもその様にして存在しているように眼前に立ち現れてくる。そして不可解に突然失踪してしまう。その彼を探し回ったあげくに後で出会った、身内という人から死んだと聞かされる。
次の詩は「怒るハセガワ」という色々な職業を経験したという山師のような、不可思議で、ある意味、愛嬌のある不審人物として登場し、何故か不可解な死をとげる人物のことである。
この詩集『似たような話』の一章は題と同じ「似たような話」という見出しがついていて、9篇の詩で構成されている。二章は「往きつ還りつ」となっていて一二篇の詩で構成されている。三章が「季節の終わり」と見出しされていて、一五篇の詩で成っている。そして一五篇中一三篇が散文詩でできている。その三章の「開発擬き」という六番目の散文詩をあげて見ようと思う。


開発擬き


大手企業の異業種交流会の講師に招かれたことがある。世話人のヘッドハンタ
ーと、とあるバーで知り合いになり意気投合した結果だった。第一線で活躍す
る企画・開発担当者たちの鋭い視線にたじろぎながらも、私はそれまでの自分
の失敗談を話しまくった。

失敗が許されない彼らにとって、それまでのセミナーでは成功談を聞くことが
多かったという。これほどゆるい内容の講演など漫談に近いものに違いなかっ
た。懇談会の席で一人の男が親しげに話しかけてきた。個人的に頼みがある。
二百万を出すから商品開発をしてほしい。思い切った失敗をしてもらってもい
い。

朝目覚めるとすぐにシャワーを浴びるのが好きだ。しかし寒い時などはパジャ
マを着たままでシャワーを浴びたい。シャワーを浴びても着ている服が濡れな
いような物を作ってほしい。当たれば成功報酬は弾む。
数日後には銀行にお金が振り込まれたいた。まずはネーミング。専門家を集め
て連日のの会議。さんざん議論を重ねたうえで「朝シャンメイト」と決まった。
問題は試作品だ。伝手を頼って服飾専門のデザイナーにあたる。ひと月後には
指示通りのものが仕上がってきた。しかし依頼人からの答えはノー。

誰もが思いつきそうなものではだめだ。もっと斬新な革命的な商品を作れと。
改めて複数のデザイナーたちと相談をした。誰もが初めのうちは快く引き受け
てくれていたが試作品がことごとくはねつけられると次第にやる気をなくして
いった。それでも形態を変え、素材を変え、思いつくありとあらゆる方策を講
じて臨んだが、結果は全て同じだった。

一年近くが過ぎ資金も底を尽いてしまった。やむなく依頼者に詫びを入れて戦
略の練り直しを持ちかけようと連絡を取ってみたが通じない。件のヘッドハン
ターと会ってそれまでの事情を打ち明けた。

依頼人はしばらく海外に出かけていた。愛人同伴だったという。帰国してみる
と家の中はもぬけの殻。家財道具全てを奥さんが持ち去って家を出て行ってし
まったのだという。以後依頼人の消息が不明のまま、三十年が過ぎ去ってしま
った。


 この「開発擬き」と名付けられた詩は、第一章の「ソビィ」と名付けられた詩の石鹸の発売騒ぎの失敗談と響き合う性質のものであり、喜劇の要素の詰まった滑稽譚でもある。彼との付き合いの長い経験の思い出には、ハッハハアァンと頷くようなものも思い浮かんでくることもあるのである。ここには詩人自身の性格の直なところと、すぐに人を信じるという性からおこってくる失敗談とも軌をいつにしているとも思えてくるところである。これらの長い経験の思慮のいたるところから、彼の詩のリアリズムは生まれてきたとも考えられるのである。
 たんなる想像上の創作ではないところに、彼の詩の現実感が存在するという滑稽さや悲喜劇の深淵を見せられると、そこにはわれらの生涯の悲運や不幸のできごとにも、そのことをそのように生きざるを得ない人間の存在そのものを、ある言葉によって肯定するということになっていくのだろう。それが人間というものだ。そのように思わざるを得ないほど、彼の詩は透徹しているとも言いえるのだ。

 

 

 

 

2019年4月22日 (月)

現代の詩篇・松村信人・『似たような話』にいたるまでの時代について1

『現代の詩篇』松村信人 
『似たような話』にいたるまでの時代について1
                                                  
 学生時代からの同志ともいうべき松村信人から、『似たような話』(思潮社)という詩集が送られてきた。あわせてお祝いと激励を兼ねて会を開きたいと、お誘いの電話もあった。気付けば僕も古希になっていて、彼もすぐそこに至る歳になっている。
 会への誘いの案内文に「第三詩集『似たような話』(思潮社)は実社会の世俗的な出来事をまるごと詩に持ち込みながら、といって小説の真似ごとになるのではなく、口語自由律の特徴を生かした、なかなかスリリングな、ユーモアとペーソスにも溢れた現代詩の特異な達成点を示すものになっています。」とあり、言葉をついで出版社をとおしての文化的な貢献も顕彰しようという趣旨の案内でもあった。2019年1月26日(土)夕方から梅田の北のDDハウス。
 ここ三、四年、時に入院騒ぎのあった当方としては、ほとんど梅田、大阪駅方面まで出かけることのない生活をしていたもので、多分新しい建物だらけで、方角も判らなくなっているのではと思い、数時間前から出かけて行って会場を探索するということになって、杖をつきながら歩きまわった。さいわいにも目的の会場も見つかり、事なきを得たところだ。

 松村信人とは大学時代からのつきあいで、かれこれ四五年から五〇年近くになる。その当時「銀河詩手帖」が月刊で出ていて、関西では書店でも置かれていたが、その詩誌の同人として知り合ったのが最初であった。
 今になって当時を振り返って見ると、ぼくも彼も七〇年安保闘争の時代の荒波にもまれた世代であったのだ。大学封鎖、特に彼が入学した六九年は関西学院が全学封鎖中とのことで、大学に通うようになったのは七月の初めであったらしい。
ぼくの方も大学封鎖があったりした関西大学天六学舎のほうの、一歳年上の三年次生だった。その当時のことを書いた文があるので、一部を転載してみる。「平林敏彦・想い出・アットランダム」からだ。「前略¦ そのうち学内が安保改定やベトナム反戦などの全共闘運動などでさわがしくなってきて、こころも荒波に襲われたようなあんばいだった。東大紛争・安田講堂の落城が六九年一月のことでそれにはまだ間があったが、天六学舎でも授業料値上げ反対などもからんで一時学内封鎖された。この政治的過剰とも思える時代、米国の反戦運動の思想的支柱ともいえるビートニク、さらにフォークソング、ロックなど多くのものが日本の学生運動や政治、社会、文化に影響を与え、それらから無関係でいることなど無理なことだった。とくに左翼的なユートピアへの希望のような渇望はある意味信仰のようにアカデミックな砦のように考えられる学内人士の深層意識にあったことは、自身をかえりみてもまるで否定できない蜃気楼のようにこころの奥底によこたわっていた。これらが衝撃感ととともに崩壊していくのはゴルバチョフのペレストロイカ(政治改革)・ベルリンの壁崩壊からソ連という国家が解体していった八〇年代中ほどから九〇年にかけてであった。
 話が先に進みすぎたのでもどすと、この政治的運動過剰の時代、熱病のような学生運動(革命への期待感のあった)七〇年にかけて詩のようなものを書きはじめていたとき ¦以下略」
 松村も後々の同人詩誌『凶會日』の創刊号の「私的七十年代」(一)という文の中で回想している。「そしていよいよ六月二十三日を迎える。今日からは想像もできないことだが、日頃あまり政治とは縁のないと思われた学生たちも含め、大半の学生が何らかの抗議行動に動いたのである。デモの隊列は大学正門から数キロ先の甲東園の駅まで延々と続くものだった。私は当初大学の部隊に加わって大阪城公園まで向かったのだが、様々な形で隊列が組み変わり、御堂筋でのフランスデモ、ジグザグデモに移った頃にはすっかり友人たちとは離れ全く顔見知りのいない集団の中にいた。思えば六八年、六九年が一つのピークで、七〇年六・二三は政治的儀式に過ぎなかったのかもしれない。不測の事態に備え密かに心の準備もしてきたつもりだったが、何か物足りなさの残るデモと感じはじめていた。そんな矢先解散地点に近い梅田駅周辺で突然その衝突は起こった。最初は罵声が飛び交い騒然とした中で投石が始まったと思うや、いきなり機動隊が私らの隊列に切り込んできたのだ。一斉検挙という声が耳に残った。たちまち隊列はばらけ、巻き込まれた群衆の悲鳴とともに大混乱となった。どこをどう走って逃げたのか、気がつけば真夜中、西宮北口駅のベンチにいた。そのまま夜明けを迎え、その日は珍しく一時限目の授業に出た。語学の小テストを授るためだったが、驚いたことに何人もの学生が怪我だらけの格好で出席していたことだ。この頃運動の形態はそれ以降に比べるとそれほど過激でもなく、授業には出るという一種の倫理観が備わっていたということか。」と書いているが、その当時いわゆるセクトに属さない多数の人たちがいたのだ。ノンセクト・ラディカルともいわれた、抗議行動へのシンパシーをもったデモへの参加者達だった。彼らはそれぞれにその後の道に進んでいくわけだが、この辺りから政治的に一区切りがついたと感じた人たちのあるものは、詩歌、文学の方に進んでいったものと思われる。
 ともあれそのような時代を共に過ごしてきた彼、松村信人の最初の詩集『伝承』が出版されたのは、一九七六年一二月一日(樹林館)のことだった。
 詩集『伝承』の最初の詩は「方位」という表題がついている。


雨や嵐や雪や津波が
どんなに生活にたとえられようと
生活が凍ったわけではない
花や樹や炎や陽の輝きが
どんなに生活にたとえられようと
生活が燃えたわけではない
営営と黒光りに磨きあげられていくものだ
確かな方向感覚をともなって
そして、黙々と歴史の環はのびてゆき
時間のはるか深層に
風景は淡淡と結晶している

一面雪の降り積った純白の朝
コートの衿をたて、背をかがめて家を出ていく
グレイを重く溶かし込んだ冬空
それでも、体中の毛穴という毛穴からは
脱皮を求める熱気があふれ
商店街の混雑する露地の一角で
ふと、私はシクラメンの小さな鉢植えを買った


 ここには、天候、気候が生活にたとえられても、また花や樹や炎の輝きが、生活にたとえられても、生活が凍ったわけでも、燃えたわけでもないと、現実の強固な仕組みや機構への認識が述べられている。そこに進みだす何ものかを望むのなら、いったい何が必要なのか、雪の降り積もった冬の朝、彼は何処に方位をさだめたのだろうか。それが一番気になるところだ。「ふと、私はシクラメンの小さな鉢植えを買った」ここに象徴された何ものかが、その時の彼の舳の方位なのだろう。
 次の詩は「風象」という題になっている。


雨あがりの樹樹の葉をなめらかに透かしてゆく朝の光のように、それはどこまで濾過されうるだろうか。濃い闇の夜、夜、呪文のように反芻することによって心の襞にはりついてしまったひとつの〈観念〉。曇りがちになる眼鏡を日に幾度も磨きをかけながら、それでも一点ぬぐいきれないうす曇りを感じつづける間の悪さ。だから〈観念〉もまた、不透過性の一種の否定によって支えられているのだ。たとえば、死を予告された病人の、せめておいしい食べ物を食べ、枕元の活け花を眺めつつ暮らしていることのなかにある確かさと不確かさ。極点は誰にとっても、容易に訪れはしない。蕾がやがて花開いてゆく過渡期の、あのまばゆいばかりの静けさ。私は永い間、〈観念〉は虚数の世界に花開くと思いこんできた。幾度か、喉もとにこみあげる熱い思いに、ほとんど眩暈を覚えながら。

窓ごしに庭の樹葉のはねかえすみどりの光が
室内にあふれる
四月の午後
私はやせ細っていく病人の側につき添ったまま
ある夜ふけ、何十年ぶりかで縁側のサボテンに
白い花がふくらむのを目撃したことを思い出す。                           


 この「風象」という題はなにを指さしているのだろうか。あの大学紛争の騒擾としたところから、突然のように静謐な観念のせかいに転移したとも思える変貌、しかしながらこれは、彼の本質的な資質なのかもしれない。どこまでも理路整然と内的世界を築きあげてみせるような世界がそこには現れている。彼の詩的現実には、片いなかの肉親ともとれる病人のことが詠われる。そこで詩的現実として縁側のサボテンに咲く白い花は、いったいなんだろうか、現実のようにうたわれる生活の断片には積み上げていかなければならない生活の逃れられないようすが読み取れる。そこにこそ何時か眩暈を覚えるような転位がおこり、信じられないような出来事が現出するのだろう。そしてこの詩人の優しさがそこには端々に滲みでているようだ。きざしはサボテンの白い花のかがやきだろうか。

 この処女詩集は三部に章だてされていて、第Ⅲ部に伝承と表題された作品が四作掲載されている。その「伝承(2)ー花と緑の黄昏にー」を、転載してみたい。


 遥か遠くの山の峰を、時には冷たい風の吹きぬける土手の上を、寒々と寄り添って歩いている男女の、おぼろげな白黒の幻像・・・暗い部屋で母に添い寝の少年は、田植え時、家の周りから一日中響いてくる蛙の鳴き声を耳にしながら、やがて訪れてくるに違いない生温い衝動を想って、胸ふるえていた。

 雑木林に囲まれた避病院の朽ちた建物の裏には、濃い繁みにおおわれた墓場が広がっていて、その中央には焼き場があった。焼き場の煙突から黒い煙がはき出されると、きまって灰色の雲が空をおおいはじめ、人通りは途絶えた。・・・熱い日照りの中を、虫取り網を持った少年は、草むらに昆虫を追っていた。雑木林の間から、荒れ果てた避病院の方を垣間見た少年は、建物の陰、赤いカンナの燃
えるあたりに、若い男女が無言のまま立ちすくんでいるのを目撃した。

 数日後、焼き場の煙突から、珍しく夕焼け雲のうねりに向かって、黒い煙がたち上っていた。朝もやのたちこめる草むらの中から発見された心中した男女の死体は、その日の夕刻、焼かれることになったのだった。すでに薄闇の忍び入る部屋の窓から、少年は宵の空を見あげながら、籠の中で飼っていた昆虫たちを解き放ってやった。

 少年の瞳に映ずる大きな明るい一番星は、いつか少年の花嫁に姿をかえていた。そうして、少年は一人で寝るようになった。


 少年の眼に映った現実の理解しがたい不条理、世界は不幸に充ちているのだろうか、いったいどうしてなのか、理解しようとしても突然に眼前にあらわれた死の様相は、逃げ水のように目の前に顕われても、決して手に触れることはできない。この時代から彼の優しさは、いっけん楽天的な所作のように見えているのだが、詩に表現されるところは意外に悲運や不幸なできごとを常に見据えているように見える。
 このような詩的現実から、やがて歳月の経過を経て『似たような話』という詩的変貌を目にするわけだが、そこに至るまでの経過はまだあるので、そこも見ていく必要を感じているので今しばらくそのことに触れていかなければならないだろう。

 

2017年8月12日 (土)

今ある危機と、特集―現代の「荒地」―のこと

 春先に詩誌「PO」から原稿依頼をいただき、特集―現代の「荒地」―ということで少し書かせていただいた。それが発行されたのが5月20日のことで、すでに三月ちかく過ぎたことになる。「荒地」という戦後詩の活動は、あの戦争から生まれてきたのだが、詩表現の革命的できごとであったとも思えるのは間違いのないところだろう。
 あの危機の時代は遠くに去ったと思っていたのだが、今8月になって、驚くべきことに戦争の危機が身近に迫っている。なんということなのだろう。
 平和というのは、戦争と戦争のあいだの暫くの静寂期に過ぎない・・などとどこかの誰かさんが言っていたのだが、地球のどこかでは絶えず紛争という戦争が戦われていた。近隣に目に見えてなかっただけなのかも知れない。願わくはー平和でありますようーそのように祈りつつ、ひさしくブログを書いているところです。

 

ついでにというのもなんですが、特集―現代の「荒地」―に書いた原稿もこの続きに添付しておこうとも思い、付け足しました。

 

 

 

「PO」2017Summer・165号
現代の荒地                         
――平林敏彦との出会いから

 

 

 

 

 現代の荒地ということですが、どうも乏しい個人的経験からしか語れそうにない。戦後生まれで大学に入ったころは一九六七年で大学紛争の激しくなっていくころだった。その当時のことを書いた文を引用したい。

 

 

 

 

この政治的運動過剰の時代、熱病のような学生運動(革命への期待感のあった)七〇年にかけて詩のようなものを書きはじめていたとき濫読した本の中に長田弘評論集『探究としての詩』(晶文社・一九六七年八月発行)があった。天神橋筋商店街に何軒かある古本屋で見つけ買ったのだろう、その序詩としてはじめに載っていたのが「秋の理由」という詩だった。

 

 

 

 

  ぼくらはいちどかぎりの言葉をもつ―平林敏彦『種子と破片』(一九五四年)

 

 

 

 

 ぼくの知らない詩人の詩集からの引用からはじまっていたこの詩は次のように続いている。

 

 

 

 

 平林敏彦よ、なぜ今日詩を書かないのか
  純潔な兄貴よ、
     「ぼくには いま
 まがってくるものだけがよくみえる」
 だがそれ以上 何かいえば嘘になるのだった
 そのことを誰れよりもあなたは熟知していた
               それは
 朝鮮戦争の時代だった
     かん高いアメリカ兵と百舌の声が
 血のような夕暮れのなかにひろがった

 

 

 

 

 けっこう長い詩なのだが読後しばらく時間が経過したあとも、つよい印象がこころに残って何かのおりには意識の表に浮かびあがってくるのだった。このような熱烈なラブレターのようなほめうたをはじめて目にした驚き、奥付から長田弘という詩人もしくは評者はまだ三十前の年齢のようだったが、評論集の序詩としてこの詩を載せているのだ。そして平林敏彦に対してこのように書きついでいる。

 

 

 

 

 ―中略―
 絶えずぼくは、あなたのことをかんがえる。
 しずかなあなたの眼差しは、しずかな
     あなたの沈黙する糾弾。
 ―中略―
 そしてゆるさない誰れも、そこにいはしなかったのだ
   ふいに口をつぐむと、それっきりあなたは
 さようならもいわずに、暗いどしゃぶりのなかへ
 すべての秋のそとへ むしろうなだれて出ていった
     こころのダスターシュートを
  垂直に堕ちつづけている淋しい詩の断片を
   汚れたレインコートのようにそこに置き忘れたまま。

 

 

 

 

 ここには詩の境界線から失踪した詩人のようすが読み取れる。いったいこの平林敏彦という詩人はどんな人なのか。ぼくにははじめて眼にする名前だったし、彼の詩を読んだこともなかった。この時からこの詩人はぼくのなかで伝説となっていくのだが、ぼくの認識がどうであれ、既にこの時代の詩人たちのあいだでは伝説となっていたのだろうと推測できた。
 この詩の続きはさらに何か渇望するような恋歌のようにつづいていた。

 

 

 

 

 おお あなたの詩は、それ以来いつだって
 ぼくにとって感情の他動詞だ。
 (・・・・・そんな詩人がいたんだなんて いまごろまで
   いったい誰れが記憶しつづけてきただろう?)
 霧の朝のミルク壜のように冷めたい孤立のほかには
 やり場のない怒りすらも、動物たちの
   瞳孔に映るあわれみの意味にしか組織できなかった
 たぶん ぼくたちの経験が所有したたったひとりの
 「やさしさ」の過激なオルガナイザー、
 純潔な兄貴よ、
  あなたは時代の透明な私生児だった
   あなたの敗北はいつでもぼくの複雑な正義だ、
 平林敏彦よ、
 あなたはいま何を凝視めているか
    それとも黙ってうつむいているのか
 なぜ詩を書かないのか

 

 

 

 

 

 時代は一九六九年七月アポロ一一号の月面着陸があり、翌年三月に大阪万国博覧会で岡本太郎の太陽の塔が公開された。好景気がつづいていたが、同時に同年「よど号事件」がおこり、一一月三島由紀夫割腹自殺、この間七〇年六月、時の政府は日米安保条約の自動延長を声明。全共闘の安田講堂落城から学生運動もより急進的な激しさを増して連合赤軍の一連の過激な闘争が起き、七二年二月の浅間山荘事件につながっていく。
―――中略―――
 いつのことだったか、一九八四・五年のことだと思うのだが、文芸交流会の後のパーティーで紹介された詩人がいた。「平林敏彦です」といわれたことに、「えっ!あの有名な平林敏彦さんですか」とトンチンカンな言葉を口にしてしまった。それが平林敏彦との最初の出会いだった。その時までぼくの内面では伝説として大きくなることはあっても、決してうすれることはなかったのだ。それまで『現代詩手帖』や『詩学』の評論などで現代詩にあって、いまや一番前衛的なことは詩を書かないことだというような言葉を目にした記憶がある。これはいったいどういうことなのか、理解しがたいことだがある意味、長田弘の「秋の理由」という詩を強烈に受け取っていたぼくには漠然とながら、こころに頷くところがない訳でもなかったが、平林敏彦との邂逅はそのままに時は過ぎていった。
 吉本隆明の『戦後詩史論』に平林さんの詩がとりあげられているよといってくれたのは「火の鳥」同人の北口榮一だった。

 

 ―前略―詩がひとつの起承転結をもった世界であるかどうか問題ではない。かれらのメタフィジカルな思考が、現実の根源的な体験と交わるときの想像力の飛躍が問題であり、完結し限定される世界よりも、どこまでもつづく飛躍のくりかえしのなかに、必然的に詩的な世界がおわるようにおもわれる。これは平林敏彦の「魚の記録」のような秀作や、―中略―

 

 

 

 

 
   魚の記録                    平林敏彦

 

 

 

 

 ぼくらはひかりがやっと射す

 

 潮のとおりみちでいつも落ち合った。
 風はそこまで届かないのに
 紐のようにあしをよじらせて 音楽が
 耳のすぐそばをすりぬけていった。
 ぼくらの鰭はなかなか潮になじまなかったが
 たしかにふたりのからだから
 あまかわのようにふるい歌がはがれていった。

 

 

 

 

 詩の一連だけのようであったが、ぼくにとってはじめて平林敏彦の詩にふれた時であった。
                     (ブログ月下の風書・「平林敏彦を励ます集い」から)

 

 

 

 

 

 戦後詩と呼ばれる時代に生き、詩を書いてきたなかで、体験をとおして荒地的詩というのを実感することとなるのも、平林敏彦との邂逅が決定的であったのは、振り返って言えることだと思える。その学生時代に触れ記憶にとどめようとしたのも、田村隆一、鮎川信夫、黒田三郎等であった。
 鮎川信夫は『詩の見方』という詩論集の中で、中桐雅夫の「ロスト・ゼネレエションの告白」という文を引用しているが、荒地の詩人たちの気分的雰囲気をよく示していると思えたので、ここに再録してみたい。「僕らが荒地を読んでいる間に日華事変は進展しつつあった。太平洋戦争が始まった。僕らより前のゼネレエションは、戦争中、詩壇で相当派手に活躍し、また僕らより後のゼネレエションを指導して、いわゆる愛国詩、戦争詩を書いていた。それで大抵の先輩詩人のところへは僕らは近寄らなかった。僕らより若い世代はそうではなかった。(中略)こうして僕らは、僕らの前からも後ろからも離れた、妙な立場に追いこまれたのである。僕らのような考え方をしていたものが、愛国詩を書けるような詩人と一緒にやってゆける筈もなかったのである。」

 

 戦争は敗色濃厚な中、敗戦の一、二年前には若い世代の詩人たちが書く場所はほとんどなくなっていた。鮎川信夫は四四年三月、南方の戦場で喀血、病院船で内地に送還され、田村隆一は四五年八月末、舞鶴の海軍駐屯地で自由の身になった。黒田三郎は勤務先の東ジャワ島の製糖所で四五年二月に現地招集され、翌年帰国している。
 戦争末期に招集され、やがて生き残った詩人たちが帰還してくる。その時故国は焦土と化していた。自身もその一人であった平林敏彦が二〇〇九年一月発刊の『戦中戦後詩的時代の証言』で詳しく回想していて、読後、衝撃と感動したあまりブログ日誌に書いた文があるので、一部それを転載する。

 

 

 

 

平林敏彦著『戦中戦後/詩的時代の証言 1935-1955』をめぐってのノート

 

 

 

 

 

 

 

『戦中戦後/詩的時代の証言 1935-1955』を再度初めから読み直していたが、何か自分の内面で感じていた違和感のことが明確になってきて驚きを覚えると共に、戦後詩の現在につながる情況的な真相が、平林 敏彦という詩人の、その目で見、聴き、感じたそのままを淡々として、なお少年のような瑞々しい筆致で伝えているのだと強く感じたことだ。
戦後の生まれで60年や70年安保改定問題、高度成長期を通してビートジェネレーションやけたたましい時代に、詩に目覚めてしまったとも魅入られたとも思われる世代について、これは自身を省みるということに他ならないのであるが、正直に言えば、「荒地」などに代表される戦後詩は言葉のごとく戦後生まれてきたのだと、何故か既成概念として僕にはあったのだ。
言い換えれば戦後詩を担った「荒地」に代表される戦後詩人とも言い得る詩人たちにも、戦争に翻弄されつつその青春の時代に書き続けてきた詩作の準備期間があり、そのことを明確に語り書かれたものが今まで無かったともいえるのである。
 本書の、「序章 はじまりのはじまり」から「第3章 詩人たちの八月十五日」までを読んでそのことを強く思ったのであるが、これはこの著者自身である詩人以外には、今となっては語り得ないのではないかと思いいたる。語られる多くの詩人たちはすでに天に旅立ってしまったからでもあるが、大部の本書を読了しても尚まだ、続きを読みたいと思えてならないのだ。
ぼくも好きな黒田三郎の詩がその序章に出ていたので、ここにその前後を引用したい。

 

「忘れもしない。すでに「VOU」は「新技術」と改題し、村野四郎らが戦中最後に創刊したパンフ形式の詩誌「新詩論」に黒田が書いた詩を発見したとき、ぼくはいいようもない感動を覚えた。

 

 

 

 

   またあした                黒田 三郎

 

 

 

 

ひとびとはみな黒い大きな蝙蝠傘をさして出て行った
闇のなかへ
とり残された広い部屋のなか
テイブルの上で一本の蝋燭が燃えている
群集に背を向けた魔術師のやうに

 

 

 

またあした
いつもいつもまたあした

 

 

 

テイブルの上で燃えている一本の蝋燭
それは
窓から闇がはいってくるのを懸命に防いでいるもののようにも見える
懸命にただ懸命に
燃え尽きるのも忘れ
ああ
微笑が頬にのぼると少年は立ち上り
しづかに灯を吹き消した
すると
音もなくはいってくる闇
躓きも花瓶を落っことしもしないで
闇は音もなくはいってきた
そして
秒を刻む時計の音

 

 

 

涙が一滴少年の頬へ伝うて落ちる
またあしたまたあした
                    (新詩論一九四二年三月)

 

 

 

 

この詩には、のちに黒田三郎のシンボルとなる「黒い蝙蝠傘」があらわれ、彼の出発点であった「VOU」のモダニズムと決別しつつある心情的な影のようなものが、「またあした」というリフレーンににじんでいる。――中略―― 権力から遠く離れた地点に生きる人間の真情を、苦い批評に裏打ちされた平明な言葉で書きつづけた黒田にとって、この一篇は記念すべき作品といえるだろう。」

 

 この章の黒田三郎の詩に触れて、『定本 黒田三郎詩集』の『失われた墓碑銘』を開き「あとがき」で確認してみたが、――「蝙蝠傘の詩」「無題」「道」など数篇は、戦前「VOU」「文芸汎論」「新技術」「新詩論」などに発表したことがある。――と書かれていて終戦以前のものだと確認できた。というのは彼は三冊の詩集を友の手に残して南洋興発株式会社に入って、インドネシアのジャワ島に赴任していったが、戦火でその大半を失われているのだ。――以下略――

 

 

 

 

 

『戦中戦後/詩的時代の証言 1935-1955』の「第1章 第二次大戦下の若い詩人たち」の冒頭で、筆者はこのように書いている。

 

 「ともあれ、既成詩人のあらましが雪崩を打つように戦意昂揚の愛国詩に協力した時代に、まだ無名の若い詩人たちが、かろうじて詩の文学的純度を守りぬいた事実は、現代詩史の重要な一齣として残るだろう。この時期、もしかれらの存在が欠落していたら、敗戦後の破滅的状況と向かい合って新しい時代を拓いた、戦後詩の構築も不可能だったにちがいない。」

 

 戦後詩の現在にいたる展開を思うにつけ、この著作によって明らかにされたことは、その資料的な価値にとどまらず戦後半世紀を過ぎて六十数年になろうとしていて、ようやくその当時をかえりみて戦後詩の激動ともいうべき経過を、その系統にそって且つ重層的に俯瞰するように活写しているということにある。このようなことが、今やこの詩人をおいて他に望み得ない状況になっていることを考えれば、読者としてはもっと続けていただきたいというのは、切ない願いであろうか。
第三章の田村隆一、北村太郎、三好豊一郎との関わりなど『若い荒地』の詩人たちのすがすがしくも濃密な関係の描写など、目にうかぶようで熱くなるなにものかに胸充ちてくるようだ。
特にぼく自身が戦後詩人のなかでも、一番詩人らしい詩人、好き嫌いでいえば最も好ましく思っている詩人が田村隆一であれば、この『戦中戦後/詩的時代の証言 1935-1955』で語られる、田村隆一という詩人の人間的軌跡の一端にもふれた、もしくは秘密にふれた感が深くなった。

 

 

 

 

 

   石                     田村隆一

 

 

 

 

わたしの上で 蛇は睡ってゐたが
夜 非情の泉に濡れて
はげしく顫へ はげしく悶え
水晶となった

 

 

 

 

  翳

 

 

 

 

わたしの骨にふれれば貝のひびきよ
わたしの肉にふれれば水のにほいよ

 

 

 

 

「田村隆一が戦後はじめて詩誌に発表した作品は右の二篇と見るのが自然だが、ぼくの思い過ごしだろうか。なぜか詩集『四千の日と夜』から省かれてはいるが、その原型に繋がることは間違いなく、初期のモダニズムが遠因と見られる過剰な表現は息をひそめて、きわめて簡潔な象徴的叙法がとられている。「石」は全四行、「翳」はわずか二行。やがて田村の詩の主調音となる「否定と断言」のモチーフが、徹して切り詰めた詩的世界の骨格を示しはじめているようだ。」

 

この著者による、戦後初期の田村隆一の詩への指摘は明快で、詩人のその後の表現上のビジョンへとつづくのだが、戦争の精神におよぶ暗澹たる様のなかから、どのように詩人たちがその詩をかたち創ってきたか秘密を解き明かしてくれるようだ。
2009年3月20日(金)

 

 

 

 

 敗戦の一年前、平林敏彦は軍隊に招集され、市川国府台の野戦重砲兵連隊に配属された。そこは、軍隊が狂気の世界に思えた平林には、「歯が折れ、血を吐くようなリンチが繰り返され」る世界だった。「死ぬか殺されるか、それ以外に選択肢がない呪縛の中で一年余りが過ぎ、敗戦の日を迎えたとき、ぼくはただ詩を書きたい衝動に駆られた。」(平林敏彦詩集・現代詩文庫思潮社)と「Memorandum」に書いている。一九四五年秋、復員してきた平林は、横浜の地方新聞社に就職し、翌年三月、「新詩派」創刊号を出したが、性急で住所のわかっていた詩人に呼びかけた恣意的なものだったと反省している。この時期に田村隆一と再会して、協力を約束してくれたので、再度新たな意欲でその年の六月第二次の「新詩派」創刊号を発行している。巻頭は田村の詩で、彼はさらに三好豊一郎に宛てた「手紙 一九四六年春」というエッセイを書いている。二号に田村隆一、三好豊一郎、鮎川信夫、八束龍平、岡安恒武等の戦後詩の秀作といえる詩が掲載されている。
 とまれ戦後の荒地という運動をになった詩人たちは、この「新詩派」という詩誌から活動を再開していったものと思える。

 

 

 

 荒涼たる焦土
 敗戦にともなう故郷や街への復員はどのようなものだったのか、おなじブログに書いた「田村隆一をめぐって」というところから再度転載する。

 

 

 

 

  ――前略――
『腐敗性物質』田村隆一自撰詩集(立風選書)、「詩的遍歴」の「ぼくの苦しみは単純なものだ」というエッセイの中で、

 

 

 

 「それでは、ぼくの詩集『四千の日と夜』の原型となり得た詩とはなにか?

 

 

 

 

  ドイツの腐刻画でみた或る風景が いま彼の眼前にある それは黄昏から夜に
 入ってゆく古代都市の俯瞰図のようでもあり あるいは深夜から未明に導かれて
 ゆく近代の懸崖を模した写実画のごとくにも思われた
 
  この男 つまり私が語りはじめた彼は 若年にして父を殺した その秋 母親
 は美しく発狂した

 

 

 

 

 これは、『腐刻画』と題した散文詩型のもので、この詩を書くことによって、ぼくはぼくの「詩」を発見したといってもいいかもしれない。鮎川信夫は、この詩について、つぎのように書く――こういう詩が出現するためには、われわれは二つの大戦を経験しなければならなかったということを想ってみてください。すくなくとも一九四五年以降でなければ、絶対に生まれえなかった作品だというふうに考えるなら、この詩のなかに入ってゆくことは非情にやさしくなるはずです。」

 

ここで鮎川がいった一九四五年とは第二次大戦で日本が敗戦した年のことで、この詩に続く九篇の散文詩に関して田村隆一は「あの敗戦の年の、荒涼とした時代のものである。ぼくの「地獄の季節」は、これらの散文詩からはじまったのだ。」といっている。
 古代からの見慣れた風景や景観すべてが破壊され、のこされた残骸のなかで、人みなしく生き残ったものは戦後の地獄のなかで、創造をつみあげねばならなかったのだが、省みれば、いままで社会の規範として人を縛り付けていた存在はうたかたのように消滅し、母なる地上には混沌のみが渦巻いている。
 田村隆一のいう、ぼくの「地獄の季節」はまさにそこに存在し、その渦中に彼はいるのだ。
 そのときの彼の詩的原型が、『腐刻画』であり戦後の時代が濃密に反映している作品でもある。この後「幻を見る人」から、自由詩スタイルの詩がはじまるが、その初頭から三連をひいておこう。

 

 

 

 

空から小鳥が堕ちてくる
誰もいない所で射殺されたひとつの叫びのために
野はある

 

 

 

窓から叫びが聴えてくる
誰もいない部屋で射殺されたひとつの叫びのために
世界はある

 

 

 

空は小鳥のためにあり 小鳥は空からしか堕ちてこない
窓は叫びのためにあり 叫びは窓からしか聴えてこない

 

 

 

 

田村のいう、彼自身の戦後がここから始まり、――「美しく発狂した」という詩句の重層化と拡大化に、その後のぼくの詩業があった――と述べる作品がつづいていくのだ。
2009年3月22日(日)

 

 

 

 言い尽くせぬながら、危機の時代に遭遇し生きた詩人たちが、焦土とかした国土を見つめて荒地という言葉をつかいはじめたのは必然であったように見える。焼け落ちたものは国土だけではなく、人々の内面の精神文化そのものでもあった。そこには戦前の感情に根差した情緒的雰囲気に酔うような表現が入る余地のない厳しい現実が眼前に横たわっていたのだ。
 小野十三郎が言った「奴隷の韻律」というのは、戦前戦中の詩人たちへの痛烈な批判から出てきたものだ。詩というものは、どこまでいっても人間の感情に拠ったものに違いないと考えられるが、より理性に基づいた批評精神に依拠した詩を書いて行こうという運動になっていったのも頷ける。ではそれから戦後の荒地は復興したのか。街や社会はここまできたのだが、詩はどうなのか。いろいろな詩運動がおこったが、批評精神に基づいた強固な構造的作品が多くの詩人たちによって生み出されてきた。うたう詩を離れていくということは、より思想的こころみを内包したものとなっていったと思えるが、それは詩的営為を経ない人々から離れ、社会的理解から遠く拡散していった過程のようにも理解できる。そのなかで詩を書いてきた人にとって、そのこころの世界にはかえって荒地が広がってきたのではないか。それが現下の問題であるともいいえる。政治的状況をプロパガンダするような詩はまた不幸なことだ。人間生活をよりゆたかにしてゆくもの、詩は本来なにものであるのか、それは今も変わらぬ命題であるようだ。

 

 

2017年2月18日 (土)

吉田定一詩集『記憶の中のピアニシモ』をめぐって(現代の詩編)

吉田定一詩集『記憶の中のピアニシモ』をめぐって(現代の詩編)
       Ⅰ
 音楽にあまり詳しくはないものに、ピアニッシモというのはなかなか判りにくいのだが、五線譜の強弱記号ピアニッシモは、(ピアノ・弱く)という記号よりも(とても弱く)と意味されている。
 もともと表現上の強弱を示すためのものだろうから、それは表現者の感覚や感性などによっているものと考えられる。そこから必然的に相対的なものという性格を帯びるものになる。またピアノという記号には(やさしく)という意味合いもあったことから。(とてもやさしく)という意味も推測できる。

 吉田定一詩集『記憶の中のピアニシモ』(竹林館16.5刊)を読んでいて、ついその意図するところにこころがとらわれて言わずもがななことを書いてしまった。この詩集の第一章「青空」の22編の短詩で編まれたものは、この詩人の存在を問いかける永遠の疑問符と幽かなユーモアのうちに、存在そのものをゆるしと覚知できるやさしさに色ぞられている。


    燐寸


 カウンターで燐寸を擦る
 ぽっと紅く燃え立つ
 一瞬の 追憶へのピアニシモ


 なんだろうか・・・。いままで生きてきてふと思い返した時の、あの時のかすかなこころのゆらめき。そのような記憶のかすかな肌触り。そこにあったはずの感情への、こころの反芻作業ともいえるもの。


    あやめ


 うす紫色の単衣の衣をさらりと広げ
 垂らした帯が可憐です
 一度は想ったこともある あなたを
 忘られぬいとけなき日のかなしみ


 つややかな記憶のひかりの経過を思わせるかなしみ。その人はどのような想いを、そのかんばせに見せていたのだろうか。


    青空


 ああ 感嘆符と疑問符が
 あんなにも空を青くしている


 晴れあがった蒼穹の存在、それ自体がゆるぎなくそこに在ることの驚き。それを眺めているものの不思議。この系譜の続きは二つあとの次の詩にも響いていると強く思える。


    蟻


 悲しみが 這い回っている
 たまには訪ねてみよ この指先に


 悲しみとは何なのだろうか。このように短詩に結実した結晶体と比べて、わたしたちが生きている現実の襤褸切れのようなまとまりのない生活。そこにこそこの詩人が見つめている美が存在するのだ。それをあわあわと捉えてみると、次のようなユーモアになってくるのだろうか・・。


    柳


 風にたなびくばかりの八方美人よ
 いや まあ あの その はあ・・・
 ああ じれったい ことばの歯切れまで柳腰
 へっぴり腰の及び腰 うん・・・ これで善かと
 
          Ⅱ
 
 先のブログでここまで書いて、時が過ぎていってしまった。あっという間の五ヶ月である。詩集『記憶の中のピアニシモ』は四章にわたり五九篇の詩でなっている。その中で四章の「月影」という詩にこころが留まってしまったので引用する。


 湯舟に からだを預けて
 身をほぐす
 こころをほぐす

 深い渓流の音に 洗われながら
 しぜんと頬が 緩み
 あなたの目元が ほぐれる

 おたがいの構えも 解いて
 湯船に浮かんだ
 ふたりの 哀歓 

  ――「不幸は いつも
    同じ顔をしているが
     幸福は それぞれ違ってる」って

  ――それって『アンナ・カレーニナ』の
     冒頭のparodyじゃない?
      あら きれいな紅葉の 月影だこと

 お湯に なにもかもを解いて
 あなたの瞳に
 あわい月の光が 零れる


 入浴中のふたりのやりとりなのだが、寺山修司の『幸福論』の引用があって、それに対する同伴者の言葉が書かれている。気になったので『アンナ・カレーニナ』を確認してみたのが次にあげたところだ。「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」(訳:望月哲男、光文社古典新訳文庫、2008)となっていた。意味を追っていくと、まったく反対のことを書いてあるのだ。寺山修司に関して大岡信が「平林敏彦の詩」という作品論の中で、一九五七年元旦の消印のある年賀状の寺山修司の短歌について書いていたのを思い出したので引用する。

 失ないし言葉が
 みんな生きるとき
 夕焼けており
 種子も
 破片も
                      五七年元旦 寺山修司

 この歌にうたわれた「種子も/破片も」という言葉は、「そのころ颯爽として新進詩人の第一線を走っていた詩人の詩集の題を、けろりとして自作の中に取り入れてしまったのだ」と書いている。『種子と破片』という詩集は平林敏彦の第二詩集だった。大岡信は寺山修司の才能にかんして「その手の換骨奪胎技法において、天才的と言っていいほどの妙技を見せはじめていたからだ」といっている。この当時、寺山修司はまだ学生時代で厄介なことにネフローゼを患い入院していて、そこからの賀状だったらしい。
 「月影」という詩にもどるが、不幸といい幸福というのも、寺山が言ったように、『アンナ・カレーニナ』と反対のことをいったとしても真理なのだとぼくには思える。なんという寺山修司の才能だろう。またそのことに気づいているだろうこの詩人の鋭敏なところも感嘆符がついてくる。しかしながらさり気なく淡々と幸せなひと時を定着させている。
 ある仏説を思い出したので書いてみると「生とは苦悩の異名なり」と書かれてある。命ある限り生活は続き、生きている限り苦しみ悩みはともにある。そこから生とは苦悩のことだというのだ。その苦悩の合間に訪れる静謐の時が幸せの時なのかも知れない。それをそのように感じるのも個々の資質によるだろうが、なんとも日常生活には舌打ちしたいような出来事に満ちている。それでもこの詩人は楽しみ方を知っているのだろう。ユーモアさえあれば存在の哀歓はたのしくなるのだといっているように。
 四章「石ころ」の詩を次にあげておこう。


猫のひとり歩き

 夕暮れが夜に
 さよならすると

 路地という路地から
 残り少ない夕日が 蝶になって

 深い夕暮れの谷間に
 消えていく

 そんな景色を
 夢見る日暮れ時

 きまって猫はこっそり
 ひとり歩きにでかける

 けれど猫は どこへ行くわけでもない
 夕暮れどきに描く

 僕らの美しい空想の中を
 ひとり歩いて帰ってくる

  靴屋の角を曲がって


 断ちがたい希望、幸福への探求は、この詩人のいやしがたい毎日の町歩きのなかにあるのだろうか、手に触れる肌触りに実存のねがいを深く宿す表現を、このようにさらりと、してのける詩的着想はそこから生まれてきたものと考えられる。猫のことを書いている詩は他にも「猫の鈴」という作品があるが、そこには幼少期のいやしがたい何ものかが、にがいユーモアにまぶされてかいま見える。それにつづく「脱皮」という詩に秀逸のユーモアを感じたのでそれを終わりにあげておこう。


 長い眠りから目覚めた
 浮化したばかりの 蝉の瑞々しいいのち

 樹の枝を産土にして
 抜け殻を止まらせている

 人もまた 蝉のように
 煩悩から脱皮して

 時のフィルムに無聊を巻き付け
 空に羽ばたいていけるものなら

 ほら 庭の 樹の枝に
 誰だろうと思ったら

 脱皮したふりをした
 抜け殻の俺が ぶらさがっている

2015年2月 4日 (水)

現代の詩篇・Ⅵ/高橋鐵次郎詩集『笑をもつかむ』から

現代の詩篇・Ⅵ

高橋鐵次郎詩集『笑をもつかむ』から

 十二月のはじめころから咳きが止まらず風邪をひいたようで、定期検診で病院に行ったのだが肺炎の兆候が出ているということで十一日ほど入院した。暫くして暮れの二八日になって脹脛から菌がはいったようで、両足膝下が腫れて立ち上がれなくなり、致し方なく再度入院するはめになって年明けの一三日退院するまで何もできなかった。

  上を向いて歩こう

 見上げると青い空に弾きはじめた桜の蕾
   生きているからこそ眩しいと誰かがいった
 見上げるとこんな都会でカワセミのような鳥
   ちゃんと生きてまっせといいたいような
 見上げると天守閣もどきラブホテルのてっぺん
   帯 締められます の札
 見上げると青い空のその先は漆黒の闇だなんて
   そこまで考えるな アホ
 上を向いて歩こう 首がだるくても
   モクひろいしないためにも

 高橋鐵次郎のこんな詩が思い浮んだ。生きていればこそこんなにも感動するのだろうかと。彼とはぼくが学生だった時からの付き合いになる。年齢的には十歳ほど上なのだが、同人誌「火の鳥」や「わが仲間」からのまるで同伴者のような存在だ。この詩集は「火の鳥・手作り叢書02」だったのだが、『おらぶ魂を求めて』(平成十一年火の鳥社刊)の第一詩集が存在する。掲載された詩が八十九編という大部の詩集だった。この詩集の序に平林敏彦が「詩とは何か」という言葉を寄せているので、はじめより一部引用したい。

  高橋鐵次郎の詩を初めて読んで、詩とはいったい何だろう、という思いが鉛のように胸   につかえた。「安住の地」とは女が求める幻想であって、永遠の漂泊者である男に「安住の地」はない。もし「俺は存在してはいけない人間ではなかったのか」という自虐、自責の一念がなければ、彼の詩もあり得なかったろう。自らの実感に根ざし、流転する生の在りようを彫琢したこれらの詩が訴えてくるものは、一切の虚飾を排した人間の清々しい肖像である。詩が人間性の根源から汲み上げられるものであるならば、この一巻に通底する一種の「覚醒」とも言うべき生の自覚によって、詩の持つ自己確認の方位を感知しなければならない。思想というには生々しく、情念というには乾き過ぎる彼のモチーフはそれ自体刺激的な詩的モメントとは言い難いが、究極において滅びに向かう生の危機感を魂の告白として書いているところに誠実な精神性が見てとれる。〈詩集序文から〉

 いささか安易な選択だが、第二章の「釜ヶ埼から能登へ」というなかに「安住の地」という詩があるのでそれを掲載してみたい。「連れ添いと別れた独居生活の二日目」という詩が書かれ釜ヶ埼から北陸へ移転したところで書かれたものだろう。

     安住の地

 こんなあばずれたところで死ぬかもしれないとふと思う
 野垂れても死んでやらないと精一杯のやせ我慢で手紙を
 書き送ったばかりなのにこのやけくそにひっかしがった
 荒ら屋に住むあばずれた女を相手に股間の腐れも覚悟し
 あばずれた生活を続けていると頭も心も手も足もヘドロ
 に埋没したままの海底の死魚にも等しく身動きならない
 もう詩とか小説だとかなんてことスッキリ洗浄してやり
 小ざっぱりした暮らしがしてみたいと心から願っている
 もしおれに 安住の地が見つかるようであればの話だが

 その時おれはまだウブで純情な色白の小学六年生だった
 大阪からひとり四国への旅で 鉄道の乗客になっていた
 まだ一歳にもならないおれを六年間育ててくれた伯母に
 何としてでも逢いたかったし 言葉をかけてほしかった
 伯母は 伊予の大洲にいることだけはわかっていたから
 くすねてきた金で 列車に乗りさえすればよかったのだ
 伯母は 小さな寺の後妻になりすまし 元気そうだった
 坊さんは頭も白く顔も白く 白い着物を小さく着ていた
 なんでこんな坊主の後妻になったんだ とおれは思った

 おれは 寺の庭で 近くの子供たちと一日中遊んでいた
 一日中 まちを歌い歩くいとこが おれの顔を忘れずに
 何べんも 何べんも おれに ニタニタ 笑ってくれた
 しばらく いやずっとここで暮らしたいと伯母に頼んだ
 寺は 貧しいから と伯母はおれの目をじっと見つめた
 土産だと なけなしの金をはたいておれに菓子を買った
 土讃線の帰りの列車の中で その菓子はすぐなくなった
 瀬戸内海の空と海が 引っ張りあいしているのが見えた

 寒さのために目を覚ました 神戸で 下りることにした
 大阪まで帰る気になれなかったから ぶらぶらしていた
 三宮をほっつき歩いていると でかい女が近づいてきた
 きれいな女だと思っていると 毛皮コートの前を開いた
 (うわつきよ) 女は笑っておれをコートで包もうとした
 おれは何のことかわからずにただ顔を赤らめちぢかんだ
 そういえば あのころから安住の地なんてなかったのだ
 やけくそにひっかしがった 荒ら家と あばずれた女と
 もしおれに安住の地が見つかるようであればなんてバカ

 ここには安住の地を求めようとする人間本来の願いがみてとれる。詩人の七歳まで育ててくれた伯母をたずねた記憶がえがかれているが、そのことについて、詩集あとがきに、「終戦後、再婚した父は私を引き取り、そこに新しい母がいました。その母は私の存在を知らなかったそうです。知らなかった、つまり騙されたというのです。」詩人はこのあと無視され、母方の墓参の折など、腹違いの兄弟三人とその母に留守番をさせられ、鍵をかけられた家の外で夜遅くまで帰りを待つのでした。「私は「はぐれ」ている自分を感じていました。」(同あとがき)ここからこの詩人の彷徨が宿命づけられたのだと考えられる。それからの流転と自らの存在についての問いかけはこの詩集のいたるところに表現されている。
 この章には過去に引用した詩があるが、どうも何故か捨てがたいので再度掲載してみたい。

    ある公園の風景

 ゆらゆらと 斜めからのぞく朝日
 下着まで剥れた 木立の挨拶
 群がる鳩 チカチカ光る噴水
 大晦日を焚火で過ごした日雇い人たち

 くすぶる焚火 水浴びを楽しむ鳩たち
 ごろごろ日向ぼっこの生活破綻者
 固く強く拒絶している動物園の入口
 喪うことを知らない 鳩の大群

  ぽっぽっぽ ハトぽっぽ
  マメが ほしいか
  そら やらない
  世の中そんなに甘くない

 いっせいに鳩は飛び立ち
 通天閣のてっぺんの 凜 とはためく日の丸
 ああ 今日は
 元旦なのだ

 このころ家を出て一人になった彼が、自身の暗澹たる破綻状況を赤裸々にうたった詩なのだが、飾りもせずありのままを言うことによって、ぎりぎりのところでかもし出されるユーモアを感じてしまうのだ。戯画のようなおもしろみとは、どのような経緯や成り行きであっても悲惨な状況を静かに受容できるこころがあれば、どのようにも生きていけるという暗黙の表出と思える。この後彼は旅立っていくのだがその詩もあげておこう。

    変転

 変転することが 好ましいわけでない
 けれど流浪の招きで北陸へと流れていく

 安もんばっかりの 家財道具や本を
 ある人には贈ったり ある人には売りつけた

 身軽になった流浪は サバサバした
 カバンにいっぱいの空気を詰め込んだから

 明日はプラットホームでだれかに電話
 したくなっても しないでおこう

 彼はこのあと能登のホテルに一時期仕事を得ていた。その時期の詩を一篇あげておこう。

    雪の駅

 なにしろ能登まできたんだから 風光明媚はあたりまえ
 寒ブリの獲れる海が波立っていたり 雪で能登島が霞んで見えたり
 で〈孤愁の世界だ〉なんてそんなことはいわないでほしい
 流れてきたとはいえ 僕はここの住民なんだからね
 ある日 会うはずもない友がフロントの前に立った
 まさかといいつつ その夜しこたま飲んで
 「振りつけの仕事もドサ回りの時代よ」
 なんてさみしそうな話をたっぷり聞かされ駅まで見送った

 これは先生ですよ これはあいつに渡して下さい
 この湯飲みで お茶を喫んでくれるだろう
 冬の寒い日に あったかいお茶を
 友は暖かそうなシートに座り ニコニコ笑った
 僕は雪の駅で列車が見えなくなるまで見送った

 彼の詩には小難しい詩論など必要ない。そこから一番遠いところで詩をかいているように思える。好き嫌いは別にして存在のエッジとでもいうのか、際どい縁に佇みながら、生きることの喘ぎや返り血をあびながらもアカンベーをしているような横向きながらのユーモアを感じてしまうのだ。表現の上手さなど、その言葉の存在感の前でなにほどのことがあるのかと、これもまた不思議な感懐にとらわれてしまうのだ。まだ何かかきたりないのだが、みじかい詩をあげて、一応はここで筆をおくこととする。

    朝焼け

 朝焼けは
 夕焼けに比べて
 どうして
 あんなに
 あっけなく
 消えるのだろう

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